そして模擬戦を行う時刻になった。月夜はこの間に着替え、汚れてもいいような服装に
なっていった。
「行くぞ」
 教官が腕を一振り。その目の前に元からそこにあったようにぽっかりと黒い穴があいて
いた。そして教官、夕香、月夜の順でその穴に入っていった。そして景色が一転した。春
を表していたその風景は命が輝くように葉が青々と茂る夏の風景。
「そうね、ここは時の流れが下界と違うものね」
 夕香が懐かしそうにつぶやいた。その表情が和らいでいる。
「知っている場所か?」
「はい。狐の里の近くです」
 本当に近いのか月夜の右腕がかくんと伸びた。勝手に動き出した自身の腕を静かに見つ
めて深く溜め息を吐いた。
「お願いします」
 教官はそれを承知していたのか一つ頷くと強固な結界を張った。その途端、伸びていた
月夜の右腕がパタンと元に戻った。
「とりあえず、急所の攻撃は禁止だ。それと目潰しなども駄目だ。刃物はお前らの好きな
ようにしろ。とりあえず今後任務に支障があるようなことは駄目だ」
「了解」
 言葉少なげに頷くと月夜と夕香は間合いを取りながら刃を取り出し腰を落とし構えた。
「始め」
 教官の鋭い一声が合図だった。夕香と月夜は同時に動いていた。夕香は刃物を逆手に、
月夜はそれを順手に構えていた。夕香は攻撃する気満々で行っている様だが月夜は逆のよ
うにも見える。
 一合二合と刃を合わせる。月夜は軽くいなしているが夕香ももう片手に刃物を取り出し
月夜に投げた。その刃は月夜の脇を抉ろうとしたが体をひねってそれをかわしひねった反
動を利用して回し蹴りを放った。頭などの攻撃は禁止されている故にその踵は低い。
 夕香は咄嗟に飛び退って間合いを取った。空打った月夜は露骨に舌打ちをして刃を構え
て夕香に向かってくる。
 腰を落としてそれを迎撃してまた刃を交えた。二人の間にあるものは刃を交える高い金
属音と白刃の軌跡。そして沈黙があった。教官はそれをじっと見つめていた。片手には刃
が普通の棒のように握られている。
 彼女から伝わるのは一つの気持ち。やらなければならない。天狐の里を目の前にして何
を思うのか。
 彼から伝わるのは一つの焦り。なぜか、ここにいると、息があがった。記憶にない記憶
が訴えるのか。ここらで自分の父が殺されたと。
 そして月夜は飛び退って左手で胸を押さえた。上がる息を整えて辺りを見回した。
「ここは」
 このときを夕香は見逃してなかった。微笑を浮かべると刃を構えて飛びついた。それを
うけるほど月夜は間抜けではない。飛び退って前のめりに倒れこむ夕香の頭と刃を持つ腕
を足で押さえて見回した。
「やはり」
 風景に見覚えが合った。記憶が確かなら後ろに走っていけばあの薄畑があるはずだ。
「放せ!」
 じたじたともがいている夕香は頭の上にある足をどけようとしたがどけられずに、舌打
ちをした。そして口の中で小さく何かをいった。
 そのときだった。夕香を中心として暴風としか形容できない強い風が巻き起こった。月
夜はその風に吹き飛ばされたが、空中で一回転して体勢を直し片膝をついて着地した。
「出すの早すぎだろ」
 呆れたように呟くと月夜は右手に剣印を横殴りに払った。そして、二人を包む雰囲気が
変わった。
「教官」
 その言葉に教官はついと視線を上げると月夜が斜の構えで夕香を眺めながら目を教官に
向けていた。
「なんだ?」
「禁止事項はあれだけですね?」
 意図を読んだ教官は笑みを深くし頷いた。
「ああ。あれだけだ。あとは何でもいい」
「ありがとう御座います」
 そう言うと月夜は瞑目し剣印を解いて右手を肩の辺りに戻し左手にはいつの間にか小さ
なナイフが握られていた。
 夕香はその様子を油断なく見つめていた。さりげなく間合いを取りながら腰を落として
右手に刃物を握り月夜の行動をにらみつけるようにしてみている。
 そして、教官は興味深げにそれを見つめている。月夜は目を開き左手に握っていたナイ
フを右手にあてがい一気に引いた。
 白い線がすっと浮き上がりジワリと真っ赤な液体が出てきた。深紅では無く朱色のよう
な綺麗な赤い液体が線からにじみ出て手の平から滴り落ちていた。
「な」
 何も知らない夕香はその行動に目を向いた。朱色の血は絶え間なく滴り落ちていく。月
夜はかすかに眉を寄せただけでそこに立っていた。
「出て来な」
 血は月夜の白い腕を伝い肘から滴る。一滴、滴ったときだった。葉を攫う下から上へと
巻き上げる風がふいた。思わず顔を庇った夕香と漆黒の長い髪を軽く抑えた教官に分かれ
た。月夜は目蓋を閉じ顕現の瞬間を待つ。
 風の次は煌く月のような光が月夜の脇を彩る。そして、その光がやんだ時だった。血が
滴っていた場所には小学校中学年ぐらいの子供の身長と変わらないぐらいの狼、否、犬神
がいた。
 毛皮は白銀。その瞳は凍て付くような月白。牙は鋭く爪もまた鋭い。三角形の耳はピン
と張りつめ低い体勢を保っている。
「さあ、お前はどうする?」
 犬神はまるで獲物を追い詰めるがごとくゆっくりと夕香に詰め寄る。そして夕香は覚悟
を決めた。
「我が制約に基づき、汝に血を与えん。出でませ、朱雀」
 夕香は無造作にナイフを右手に刺し犬神の目の前に血を振りまいた。犬神は俊敏な動き
で飛びのき月夜の足の周りを回った。
「そうか」
 左手で犬神の鼻筋を撫でると犬神に跨った。そして犬神は予備動作なしで軽々と宙に跳
躍した。
「どうせ木性なんでしょ? だったら火性で行くわよ」
「残念。俺自身の霊力は水にあたる」
「それがどうしたのよ」
 言い争いのように言うと夕香はため息をついた。朱雀が丁度顕現した時だった。月夜は
一瞬にして朱雀に水の膜を張った。そのときだった。右脇腹に強い痛みを感じた。ぐらり
と犬神の肢体が傾き月夜が落とされた。痛みで意識が遠のきかけていたが何とか着地して
痛みを堪えて立ち上がった。落ちてきた犬神を抱きとめると刃が刺さった右脇腹から引き
抜き治癒を施した。だが、痛みは引かない。
「霊的な共鳴?」
「……ああ」
 微かに顔をゆがめると夕香を指差した。正確には朱雀を。そして水の膜は一気に縮小し
朱雀を潰した。
「……」
 夕香の顔には微かな苦痛の色しか浮ばなかった。そしてお互いダメージが消え去るまで
待ち互いに顔を向けた。
「行くぞ」
「どうぞ」
 互いに腰を落とし今度は月夜から向かって行った。流石に巧みだった。直線的な動きと
立体的な動きを上手く組み合わせて防御しにくくしている。それもまだ手加減している方
なのだろう。なんとなく分かった。刃を交えて分かった事は狐が嫌いではなく苦手という
事だった。なぜか分かった。本当は嫌いではない。が、遠ざけないと殺してしまうかもし
れないと恐れる月夜の心が伝わってきた。そして、ここが彼にとって最大の意味を持つ場
所になることを。
「藺藤」
「なんだ?」
 言葉を交わせるほど余裕のある攻撃だったかと思ったがそのままで続ける。
「手加減してくれてる?」
「まあな。まだ半分ぐらいだ。上げるならお前から上げろ。こっちがお前に合わせる」
「そう」
 その言葉に強い光を宿した瞳で月夜をみて刃物の振りをさらに速くする。月夜もそれに
合わせ関心したように目を瞠った。
「もう少し早くできるか」
 言っている傍から始めている月夜にあわせて刃を交えていた。そして飛び退いて荒い息
を整えてまた月夜に向かい交えた。月夜は疲れたそぶりも見せずに夕香に付き合ってくれ
ているようにしていた。それが、癪に障った。
 教官はそれをじっと見つめていた。
「新入りでここまでやれるとは。藺藤のほうは承知だったが日向もやれるな」
 ボソリとつぶやきじっと見つめていた。白刃の筋がその目に映っている。

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